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社長のひとり言

道を譲る人、譲らない人

北九州市内を車で移動していた際、知人たちと何気なく話したことである。

運転を引き受けてくれた知人が、どうしても左折したくて列をなしていた左側のレーンに入ろうとしたところ、そのウインカーを見た左後方の車両が減速し、間に入れてくれた。

知人は「この人、優しい」と感謝のハザードを後方に送る。

本当に何気ない日常の出来事だが、ここで知人たちの意見が分かれた。

一人がこう言った。

「もし、間に入ろうとする車が、意図的に高速レーンを走ってきて割り込もうとするなら、自分は入れないだろう」と。

私はこう答えた。

「自分はあまり気にならない性格なので、車間を開けてあげるかな」と。

互いの個性を受け入れる

どちらの選択が、より人生を豊かにするのだろうか。

私は当然、譲る選択の方が自分の人生を豊かにすると考えている。しかし、多くの人が「間に入れてもらえなかった」という経験をしたことも少なくないだろう。

一つ言えることは、自分の常日頃の考え方が行動として現れるということだ。

私の場合、譲るのが当たり前と思っているため、相手もきっと同じように譲ってくれるだろうと思い込んでいる。だが、相手側からすると、私は割り込み運転をする人間として見られているかもしれない。

知人は人ごとのように話していたが、それはおそらく、自分を含めて他人も同じように考えているに違いないと高を括っていたからだろう。しかし実際には、今回のような真逆の考え方をしている人間と出くわす。

お互い大人なので論争にはならないが、人間の個性の面白さがここにある。

どちらが正しいかということより、私はここに一つの法則を見いだす。

自分が考えることは、他人も同じように考えるだろうと想定してしまうということだ。

私の場合、一見すると道を譲るという優しい行動をとっているように見えるが、逆の立場では、割り込みという迷惑運転だと思われるような選択をしている一面もある。

そんなことを考え過ぎると、何が正しいのか分からなくなり、単なる過剰に気を遣う人間になってしまうこともあるので気をつけたいところだ。

私が思う程良い考え方とは、人間には個性があり、それぞれ異なるということを受け入れることである。それが自身の心を磨き、人生を豊かに生きる力になるのだと思う。

優しい人ってどんな人?

一見穏やかそうに見える人が、実は内弁慶で、社会的強者には人当たりが良いのに、恋人や家族には暴力的であるということは決して少なくない。

そのような暴力的な言動は、ある意味とても分かりやすい。しかし、「要求」という分かりにくい形の暴力も存在している。

親が子に期待し過ぎること、夫婦がお互いに「やってもらって当たり前」と思うこと、恋人同士で「相手にはこうあってほしい」と期待することなどは、言葉では「好きだ」「愛している」と言いながらも、実際には見返りを求める感情に過ぎない。

それらは、すべて「要求」である。

本当に人を愛するということは、子であろうが、伴侶や恋人であろうが、友人や同僚、社員に至るまで、相手の幸せを願い、与え続けることであり、それは行動として現れてくるものだと思う。

しかし残念ながら、私を含めてほとんどの人間にはそれができない。いや、おそらく少しはできているのだろう。だが、理想を100とするならば10〜20程度で、お互いに誤魔化しながら生きているのが現実なのだ。

人は皆、不完全

社員の一人が、私にこう言った。

「私は優しい人ではありません。自分のことで精一杯だからです」と。

どこかで聞いたことのある話だなと思ったが、よく思い出してみると、以前私が彼に伝えた言葉だった。しっくりくるわけである。(笑)

彼は、人に気を遣い過ぎて生きてきた。

「人にどう思われるか」がすべての思考の前に立ちはだかり、本来の彼の良さが、私には逆に薄っぺらく見えていた。

今回、彼が笑顔で堂々と同僚に向かってそう言い放つ姿に、私は感動した。

人間は、優しい人と思われる必要はない。そもそも、周囲からどう思われるかを基準に生きてはならない。

その前に、自分としっかり向き合い、現状を受け入れる強さが必要であり、それがあって初めて、人に与えられる優しさが生まれる。

もし、その過程を経ずに一見優しく見える人がいるなら、その先で心を病んでしまう可能性もあるので気をつけてほしい。

最近の私の口癖は、「人間は皆、不完全」という言葉だ。

これは皮肉でもなく、諦めでもない。

事実を受け止め、相手を受け入れようと努力することこそが、魅力的な人になるための、すべての人に与えられたチャンスなのだと思う。

悪は徒党を組むというが、昨今、詐欺集団などのことがよく報道されている。

ヤクザや暴力団という言葉が死語になりつつあるように思えるが、一人ひとりと会って話すと、意外にも人はイメージと異なり、まともだったりする。

人間はもともと悪人ではなく、環境や組織、出会う人によって悪なる行動を起こすようになることが多い。悪人であることが強さであると勘違いしている者も多いことだろう。

もちろん単独犯もいるが、それらの多くは精神に異常をきたしている人だと私は思う。

相手の幸せを願う

人間は残念なことに、人のことばかり気になってしまう。しかし、勇気を出して自分の内面を見つめ直す必要がある。

まずは、自分の子に対する言動をよく分析しなければならない。また、伴侶などに期待し過ぎていないかも確認すべきだろう。

「私を幸せにしてほしい」ではなく、「相手を幸せにする」ということに全力で挑まなくてはならない。

私が「全力で」と強調するのには理由がある。

それは、まず自分自身に言い聞かせていることと、それくらいの決意がなければ、凡人はすぐに甘えてしまうことを知っているからだ。

私は、社員を自分の子どものように思い、全力で接するよう努めている。

自分の子どもでさえ、親として立派に育てたとは言えないが、少なくとも社員を赤の他人として扱う段階からは脱却できているだろう。

もっとも、社員たちはそんなことを微塵も感じていないだろうが。(笑)

道を譲るのか否か。

私は変わらず譲る選択をするだろう。

しかし、人にはそれぞれの選択の自由があることを忘れないよう、これからも心がけていきたい。

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