安心を得たときの副作用
親友がこの世を去ってから数ヶ月が経った。今振り返ると、自分がいろんな心境を通過してきたことが、客観的に理解できる。
その中で最も大きかったのが、「無気力」という状態が生活に与える影響だ。
なぜ自分が無気力に陥ったのか、理由は明白だった。
親友を突然失ったことによるショックに加え、何かを成し遂げようとするときに感じるストレスや不安が、実はどれほど無駄なものだったのかと気づいたからだ。
彼が抱えていた不安も、日々感じていたストレスも、死とともにすべて消えてしまった。その様子を見て、未来を憂うことの無意味さを痛感した。
彼の棺に向き合ったとき、決意した。
もう二度と、起きてもいない未来のことに悩まされる人生は送らない。
不安を取り除いた結果
その後の1〜2ヶ月間は、不安が湧くたびに彼の名を呼び、語りかけるようにして自分の気持ちを制御した。
ここからが本題だ。
不安が消えていくのと同時に、気力そのものも失われていった。
今振り返りながら言語化しようとしているが、当時はまだ渦中にいて、冷静に自己分析することができなかった。仕事への意欲が湧かない理由も、当時はよくわかっていなかった。
自分の無気力は、頭の中から不安を取り除いた結果だった。
安心した状態を無理につくったことで、アドレナリンなどの分泌が減っていた可能性もある。
ひとつ言えるのは、無気力な状態が続くと、生命の維持そのものが危うくなるということだ。
働く意欲がなければ、当然、収入も減る。それでも「なんとかなる」と思い込むのは、ポジティブ思考ではなく、ただの能天気だ。
もしかすると、それがうつ状態の入り口の一つかもしれない。
この状態を極端にたとえるなら、草食動物がライオンの前に立ち尽くし、「大丈夫、きっと食べられない」と呟きながら無抵抗で捕食されるようなものだ。
逃げることもせず、心だけが安らいでいる。そんな状態に意味はない。
本人が幸せならそれもいいが、生きる術を失って死んでしまえば終わりだ。
生きている証
この経験から、不安は悪いものではないと断言する。
不安や恐れは、生きる上で欠かせない感情であり、それを完全に排除する必要はない。むしろ、本能として備わっているそれらを、理性で適切に調整することの方が重要だ。
不安を無理に消そうとすると、その反動として無気力や無関心が襲ってくる。安心だけを求めると、逆に心が動かなくなる。
だからこそ、不安は抱えていていい。
むしろ、それと上手く付き合うことが、健全な心の状態を保つ鍵だ。安心と不安を行き来する、そのバランス感覚こそが大切だ。
不安を感じたときは、「これも生きている証拠だ」と思えばいい。
どうしても心が沈むときは、言葉を変えてみる。
不安でも、怒りでも、悲しみでも、ふとため息をついた瞬間に、こうつぶやいてみる。「あぁ、幸せだな」と。
本当に幸せかどうかは関係ない。何かを成し遂げたかどうかも重要ではない。
感情が渦巻く中で、それでも「幸せだ」と言えたなら、もうそれだけでその人は幸せの道を歩み始めている。