北九州の不動産売却・査定 | 株式会社エステートプラン

社長ブログ

命の恩人

私には、命の恩人がいる。

正確に言うと私の長女の命を救ってくれた人。何故に「私の」と表現するかは、病気によって子を失った親であれば聞くまでもないだろう。

私の子が発病したのは、今から約5年前のこと、高校2年生の終わりの時だった。病名は、海綿状血管腫という脳の中に発生する異常血管の塊で、発生頻度は人口の約0.5%程度といわれているものだ。娘の場合は発生した場所が悪く、脳神経の中枢といえる脳幹部の中に2センチ大になるまで大きくなっており、周囲の神経を圧迫し始めていた。初めは、顔に痺れを感じる程度だったが、2〜3ヶ月で歩行が困難になっていった。

小倉記念病院で診て頂いたが、担当医いわく、頭のてっぺんを開頭し、大脳を掻き分けて脳幹部に辿り着き、幹部を切開するので命の保証がなく、手の施しようがないという診断結果だった。私は、娘の終わりを待つ覚悟を迫られたように思えたが、逆に死んでも諦めないという覚悟をもつことに決めた。

自分にできることは、何でもやる、やり切る。それが親の務めだと自身を鼓舞し、その足で会社に戻り社員にその事実を告げることなくパソコンに向かい病気について調べた。YouTubeである動画が目についた。そこに出てきた女性が全く同じ病名で見事に窮地から救われていた。

彼女を救った医師の名は、福島孝徳先生

神の手、最後の希望と呼ばれる方だった。

私は、この方しか娘を救える医師はいないと直感した。すぐに公式ホームページを閲覧する。そこに書かれていたのは、「問い合わせには時間がかかっても必ず返答しますが、その数があまりにも多いため2〜3ヶ月お待ち頂くことがあります。」だった。

大丈夫、きっと道があるはず。そう自身に言い聞かせて渾身の手紙をメールした。

「私の命と引き換えにして生き残るべき命です、どうかこの未来ある子の命を助けてあげて下さい。」

これだけでは、読まれる頃には手遅れになるかもしれないと思い、アメリカに渡る覚悟で福島先生の予定を調べまくった。なんと数十日後にアメリカのデューク大学から日本に戻り、患者のオペで日本を周るとあった。絶対に諦めないと決めて東京での滞在スケジュールに合わせてフライトを予約した。

メール、フライト予約と忙しくしてから帰ってからの晩酌は少し深酒だった。突然、21時をまわったときに非通知でスマホが鳴った。こんな時間に誰だ?と電話に出ると福島先生の助手の方からだった。

「福島先生が、お嬢様の手術を執刀すると仰っています。」酔いが一気にぶっ飛んだ。

神の声に思えた。そして一人、涙した。これ程上手い酒はかつて無かったと思う。

福島先生は、当時75歳だったがエネルギッシュで圧倒された。この方に任せたら大丈夫だと思えた。ダメだったとしても、きっと後悔せず感謝の言葉を述べただろう。

手術は、8時から17時までかかった。手術を終えた先生は、満面の笑みで「上手く行ったよ、私の過去の同類の手術の中でも3本指に入るほどだ」と話してくれた。娘が手術を受けた日は、奇しくも私の誕生日だった。それまで誕生日なんて気にもしない性格だったが、その日は生まれて初めて誕生日を自分で祝いたい気分だった。

術後の娘はとても痛々しかったが、みるみる良くなり、何とか高校にも復学し、今は福岡の大学に通っている。

後にアメリカから電話を下さった秘書の方から聞いたのは、「常に福島先生は世界中から救いを求められています。私がメールしたあの時も日本で少なくとも100人の方が列をなしていました。」とのこと。

福島先生は、何故に長女を選んでくれたのかはわからないが、きっとこの子は救われた命を大切にすることだろう。

福島先生は、この子の命の恩人であり、私の人生を救って下さった人である。

長女に対しての私の口癖は、「福島先生に出逢い、自分で勝ち取った人生だから、自分の好きなように生きなさい。見守るのが親の務めだ。」

福島先生、本当にありがとうございました。

PAGE
TOP